まだまだまだ 森です。
私の担当最後の建築は
神奈川県立近代美術館 鎌倉館
設計は坂倉準 三(1901-1969)。
岐阜県に生まれ、東京帝国大学文学部美術史 学科を卒業後、建築家を志してフランスに渡り、
1931年か ら1939年まで、現代建築の巨匠ル・コルビュジエの事務所で修 業したという経歴の持ち主。
坂倉の戦前の作品として は、1937年のパリ万国博覧会日本館がとくに有名。
パリの トロカデロの傾斜地に建てられていたこの建物は、世界の名だた る建築家たちのパヴィリオンに伍して、
博覧会建築部門でグラン プリを獲得。日本人の建築家が国際的な舞台で認められた初めて の仕事となった。
1939年、フラン スから帰国した坂倉は東京に事務所を開設。戦争の時代を経 て、
1951年11月に竣工したこの鎌倉館によって日本国内におけ る活動を本格的に開始していく。
鉄骨構造2階建て、延床 面積1,575平方メートル、今の美術館建築と比べればささやかな もの。
しかしながら、この建物のための設計競技 は、戦後間もない当時としては、建築界における大きな出来事だった。
コンペ参加指名を受けたのは、坂倉のほか、前川國男、吉 村順三、谷口吉郎、山下寿郎ら当時気鋭の中堅建築家たち。
応募要項や審査経過について詳しい記録は残っていません が、
最終的に1937年のパリ万博日本館建設の経験がある坂倉 に一日の長ありで、1950年6月末に坂倉案が当選となった。
建物は四角い中庭を中心に、その周囲を展示室やさまざまな機能が取り巻くように構成され てる。
コンペ案では2階の展示室の東西にさらに展示室やホールを増築するという計画 も盛り込まれていた。
この構成は、坂倉の師ル・コルビュジエが1939年に発表した「無 限発展の美術館」というコンセプトを踏襲したもの。
坂倉の鎌倉の美術館から7年後 には、ル・コルビュジエ自身もこのコンセプトに基づく初めての美術館を
このブログでも紹介している東京の国立西洋美 術館として実現することになる。
この中庭を中心に空間が展開する。
石積みの壁と穿たれた穴。琉球石灰岩でこれをやると面白そう。
鉄骨造でありながら組積造の味わいをしっかり出している。
建物が池の上に浮いているような構成は「ピロティ」。
コルビジェの建築の5原則の一つ。
井上と増田が妙に食いついた 階段手すり。
このスチールは大きな扉を受けるもの。
3人であーだこーだと他に来館者が少ないこともあって盛り上がってます。
スケールはとても心地いい中庭。1階の彫刻作品展示室から解放されて続いている空間。
ピロティから池を見る。
外壁はボードでできている。
ジョイントはシンプル。
次の写真。色使いや構成がコルビジェの香り漂う。
スチールドアのデザインとその周囲の縦格子はコルビジェの寸法体系モデュロールか。
この美術館も解体の危機に瀕していたのです。
残ってよかった。